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東京地方裁判所 昭和47年(ワ)6080号 判決

東京都台東区上野公園一の五九

原告 小川ミツ

〈ほか四名〉

右原告ら訴訟代理人弁護士 鈴木忠一

東京都千代田区丸ノ内三の一

被告 東京都

右代表者知事 美濃部亮吉

右指定代理人 池田良賢

同 木藤静夫

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告ら

(主位的請求)

1 別紙目録記載の土地につき、原告らが所有権を有することを確認する。

2 被告は原告らに対し、1記載の土地につき所有権移転登記手続をせよ。

3 訴訟費用は被告の負担とする。

(予備的請求)

1 原告らが別紙目録記載の土地を彰義隊戦死の墓所として無期限に使用する権利を有することを確認する。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

二  被告

主文同旨

第二当事者の主張

一  (請求の原因)

1  請求の趣旨記載の土地(以下本件土地部分という)は原告らの所有である。

2  原告らが本件土地部分の所有権を取得した経緯は次のとおりである。

(一) 本件土地部分を含む一帯の土地は徳川幕府の直轄領であったが、戦争終結に伴い没収されて国有地となり、太政官の支配管理に属する官有地となり、明治六年一月太政官布達第一六号をもって上野公園が設置布告され、本件土地部分もその一部にくみこまれたが、その後明治九年本件土地部分を除いた周辺の土地は内務省博物局の所管に移され、明治一九年三月二五日皇室財産御料地となって内務省の所管となり、次いで大正一三年一月皇室から被告に対し恩賜公園として下賜された。

(二) 原告らの先々代小川興郷は、明治七年九月、戊辰の役に際し上野の山で戦死した彰義隊の遺族として同じく遺族の立場にあった訴外斉藤駿、同百井求造とともに、東京府知事大久保一翁に対し、「戦死者の霊を祭るため墓を営みたいから相応の地所を除地にして載きたい」旨の申請を行い、同年一〇月二二日同知事により右申出を許可する旨の決定を得た。

右「除地」とは公法的には見捨地、無年貢地とともに免租地に属し、私法的には所有地が常態であり、前記興郷が前記申請をなした当時、既に使用貸借に相応する用語として借地、預り地、拝借地等の概念が存在したのに敢えてこれらの用語を使用せず、除地申請を行ったのは墓地のもつ宗教的かつ恒久的性格を適確に用語上反映したもので、墓地本来の用途をふまえて所有権を遺族に下賜されるよう願い出たものであり、東京府知事においても、本件土地部分が江戸明渡しの最後を飾る戦いで戦死した徳川忠臣の遺体を埋めた由緒ある地であることに十分の理解をもち、その遺族朋友の切なる願いにより「除地」として本件土地部分の所有権を移譲したものである。

右「除地」が使用貸借ではなく、土地所有権の移転であることは、寛永寺が小川興郷、百井求造を相手方として前後二回にわたり墓地明渡訴訟を東京始審裁判所に提起し、明治一五年一一月一〇日、同一六年一二月一一日、それぞれ寛永寺の主張を斥ける判決が言渡されており、右は墓碑建設委任に伴う委任条項違背を理由とする委任解除の当否を判断しているため、必ずしも本件土地部分の所有権の帰属につき既判力が及ぶとは言えないかも知れぬが訴訟の主題が墓地明渡にあり、同請求が不当であると断定されていることからも明らかである。

またそのことは、本件土地部分の周辺の土地が皇室林野局を経て東京市に恩賜下げ渡しになった際、興郷に対し何らの通知もなかったこと、昭和一二年右興郷のその後の承継人である真平が墓碑の由来を記した碑文を建立する際、墓地の所有者を明確にするよう申し渡されたため、東京市長ならびに管轄警察署である下谷上野警察署長に対し、右記碑の材料、建設方法、由来記文の内容等を報告し、併せて前記判決書二通を添付して本来墓地の所有権が真平にあることを明記して提出したが、当時の被告の関係部署も右主張を認め、碑文の建立工事が完成したこと、また昭和三八年二月、真平が管理舎の一部が老朽化したため改築申請をしたところ、同年七月被告の当該事務所掌機関である北部公園緑地事務所長塩谷格一名義で墓所及び管理舎の所有権が不明確であること等を理由に一旦処分保留になったが、真平が所有権の帰属に関し詳細な説明書を提出して被告の主務機関の了解をとりつけ、同年秋頃改築工事を完了したことからも明らかである。

さらに、被告が昭和二四年三月二二日条例二七号により本件土地部分を除く使用承認地を政教分離の憲法上の要請に沿い関係寺社に対し無償譲与した際、本件土地部分を譲渡処分の対象外としたことは、本件土地部分が既に真平の所有に属していることを認めていたからに他ならない。

3  前記訴外斉藤駿、同百井求造は、明治一四年六月一〇日それぞれ興郷に対し、本件土地部分の共有持分権を譲渡した。

4  右小川興郷は、本件土地部分に墓所の建設を完了し、本件土地部分及び祭祀に関する一切の権限を行使していたが、明治二八年九月一九日死亡し、その長女しかが家督相続によりその権利の一切を承継し、同しかも大正八年八月一八日死亡したため、実母りてが相続し、同りても昭和九年八月一一日死亡して、小川真平が家督相続によりその権利を承継し、さらに真平も昭和四九年二月一三日死亡し、原告らが相続によりその権利を承継した。

5  仮りに前記の経緯による所有権の取得が認められないとしても

(一) 興郷は明治七年一〇月の除地処分許可後平穏公然所有の意思をもって本件土地部分の占有を続け、しかも占有開始にあたって善意無過失であったから、現民法に照らした場合、一〇年を経過した明治一七年一〇月本件土地部分の所有権を時効により取得したことになるが、現民法の適用を考慮してその施行期日である明治三一年七月一六日時効により本件土地部分の所有権を取得したものというべきである。

(二) 仮りに右主張が理由がないとしても、少くとも真平が所有の意思を有していたことは明白であり、その占有の開始に当って善意無過失であるから、右真平がりてから継承して本件土地部分の占有を開始した昭和九年七月から一〇年を経過した昭和一九年七月、同人において時効により本件土地部分の所有権を取得したものである。

(三) 仮りに、真平がその占有開始の当初所有の意思を有しなかったとしても、真平は、昭和一二年碑文の建立に際し、東京市或いは東京市長に対し、土地所有に関する経緯を明確にして通知し、同通知をもって所有の意思を表示したから、右時期をもって始期とし、その際原告に過失があったとしても、以後二〇年間所有の意思をもって平穏公然と占有を継続したから、遅くとも昭和三二年時効により本件土地部分の所有権を取得したものである。

(四) 仮りに右主張が理由がないとしても真平は昭和二一年所有の意思をもって占有を始め、平穏公然に占有を継続したから、昭和四一年時効により本件土地部分の所有権を取得したものである。

なお取得時効の起算点を自由に決定することができないとするいわゆる固定時説には種々の無理があり、取得時効制度の本来の趣旨にも反し、民法自体が前主の占有を援用するか否か自由選択を認めていること、固定時説を採ればかえって悪意の占有者がより厚く保護されるという矛盾が生ずる場合もあること等からして時効の起算点を任意選択できるものと解すべきである。

本件土地が仮に公共用物であるとしても、公物についての時効取得を否定する見解の論拠はあいまいであり、公物であるとしても時効取得の妨げとなるものではなく、まして本件公園地のように公権的色彩の薄弱なものについては原告の土地所有権取得になんらの障害も存しない。

6  仮りに以上の主張が理由がなく、原告らの所有権が認められないとしても、明治四〇年三月、前記しかと帝室博物館との間に墓地見張所の修繕工事に関連して折衝があり、同年一〇月ころ本件土地部分につきこれを無期限の無償借地とする合意が成立した。

7  しかるに、被告は、昭和四〇年一二月一一日東京法務局台東出張所受付第三一七六〇号をもって本件土地部分を含む一帯の土地について所有権移転登記手続をなし、真平の度重なる要求に対しても自己の所有権を主張し、登記名義の是正について適切な措置をとらず、さらに昭和四四年ころ都市公園法の施行を機に、当初真平に対して立退を、次いで同法に定める手続により本件土地部分に関し一〇年毎の使用許可申請を提出するよう求め、原告が墓所を守るかたわら訪問者に対し、ささやかに飲食を供する商行為を行っていることを非難し、近時においては原告らの記念館設営、管理舎の増改築の企図に対し真向うから反対の態度に出ている。

よって、原告らは被告に対し、主位的請求として本件土地部分の所有権にもとづき所有権の確認及び所有権移転登記手続を、予備的請求として合意にもとづく無期限使用借権の存在確認を求める。

二  (請求の原因に対する認否)

1  請求の原因1の主張は否認する。

2  同2の(一)のうち、本件土地部分が明治初年国有地となったこと、原告ら主張の布達にもとづき上野公園が設置され、本件土地部分もその一部となったこと、本件土地部分周辺がいわゆる上野恩賜公園として大正一三年一月皇室から被告に下賜されたことは認めるが、右下賜の際本件土地部分が除かれていたことは否認し、その余の事実は不知。

同2の(二)のうち、興郷ら三名が彰義隊の遺族として東京府知事に対し、彰義隊戦死者の墓所の建設方を申請し、明治七年一〇月二二日許可を受けたこと、原告ら主張の年月日に東京始審裁判所の裁判があったことは認めるが興郷及び訴外人らが本件土地部分の所有権を取得したこと、上野公園が恩賜公園として下賜された際興郷に対し所有者交替の通知がなされなかったこと、真平が管理舎改築の際被告の主務機関の諒解をとったことは否認し、真平が昭和一二年原告ら主張のような経緯で碑文を建立完成したこと、また真平が昭和三八年二月本件管理舎の改築工事を完了したことは不知、その余の主張は争う。

もともと「除地」とは江戸時代における公法上の性質を示すものであって、私法上の性質を示すものではなく、したがって仮りに興郷らの願いに対する許可が「除地」を認める趣旨が含まれるとしても、そのことから直ちに興郷らに対して土地所有権を取得させる趣旨のものではない。しかも「除地」とは江戸時代のもので、近代的土地所有制度を確立しつつあった明治七年において「除地」なる概念が江戸時代と全く同じ意味に用いられていたとすることは疑問で、むしろ当時においては「除地」なる概念はすでに公法的にも用いられなかったものと考えられるのであって、それ故に願書中に「除地」なる文言があるにも拘らず、許可の際には何ら言及されなかったと推測され、興郷らに対する許可は出願の場所に墓を建設することの許可にとどまるもので、土地所有権を同人らに取得させるものではない。

右のことは、右許可が当時寛永寺からの墓碑建立願に対する許可と同時になされ、その際寛永寺及び興郷ら双方に対し、それぞれ打合わせのうえ不都合なく執り行うよう指示していること、寛永寺に対する許可においては、土地を寛永寺に任せることはできない旨を明らかにしていること、興郷らに対する許可において土地の範囲、面積が明らかにされていないことからしても明らかである。

さらにそのことは、興郷その他原告らの先代が、本件土地部分上に家屋その他の工作物を設置する際には、その都度博物館の許可を受けていること、特に明治四〇年三月しかが無断で墓地見張所の修繕工事に着手したため博物館から工事中止を命ぜられた際、同人は本件土地部分が使用許可にかかる土地であることを認めたうえで、右見張所の存置を願い出ていること、その後同年一〇月一八日しからの見張所存続願いに対し、博物館は借地料は免ずる、借地者心得を遵守すること等の条件を付し、これを許可したが、しかはこれを異議なく請けていること、大正一三年下賜の際も宮内省は東京市に対し、本件土地部分はりてに使用承認した土地であるとしてその権利義務を承継すべき旨指示していることからも明らかである。

仮りに、興郷らが前記除地許可処分により、または請求の原因5の(一)の取得時効によって本件土地部分の所有権を取得したとしても、被告は大正一三年二月一日上野公園敷地の下賜を受け、同年五月一六日その所有権移転登記を経ているから、原告らはその所有権をもって被告に対抗することはできない。

3  同3の事実は不知。

4  同4の事実のうち興郷が墓所の建設を完了し、本件土地部分及び祭祀に関する権限を行使したこと、その後しか、りて、真平と本件土地部分の占有を承継して現在に至っていることは認めるが、右占有承継の経緯については不知。

5  同5の(一)ないし(四)の主張は争う。原告の先代らは本件土地部分の使用許可を得て本件土地を占有していたものであるから、その占有は権原の性質上所有の意思なき占有すなわち他主占有である。したがって右占有が自主占有に転換するためには、所有の意思あることを表示することが必要であって、意思のみで自主占有に転換するものではない。

原告らは、昭和一二年碑文の建立に際し土地所有に関する経緯を明確にして通知し、所有の意思を表示した旨主張するが、仮りに右のような通知がなされたとしても、同通知は碑文の建立に際しその許可を得るための手続の一環としてなされたものであって、所有権にもとづいて以後占有する旨を明示する意思表示ではないから、これをもって所有の意思を表示したものとはならない。また時効期間は事実の開始された時を基準として計算すべきもので、始期を任意に選択することはできないと解すべきである。

なお本件土地部分は、その周辺の土地とともに明治六年公園敷地と定められ、公共用物としてそれ以来現在に至るまで終始一貫して公共の用に供されてきたのであるから時効取得の目的物とはなり得ないものというべきである。

6  同6の事実は否認する。本件土地部分の使用関係は興郷が明治七年他の二名とともに本件土地部分上に墓碑の建設許可を受け、その際本件土地部分の使用承認を受けたものであるところ、その後本件土地部分が一帯の土地とともに上野公園敷地として東京市に下賜され、さらに被告が承継し、その都度条例によって経過措置を講じてきたが、昭和三一年都市公園法の施行により本件墓所の存続には同法にもとづく許可を要することとなり、右許可には同法附則第四項による一〇年の経過措置が講ぜられていたため、昭和四一年一〇月一五日以降法第五条による都の許可が必要となったのにもかかわらず、許可申請手続をしないまま現在に至っているものである。

7  同7の事実はいずれも認める。前記のように本件土地部分上の墓所、管理舎等の存続には許可が必要であるにかかわらず許可申請手続をしないため立退、売店営業の中止を求めたもので、法にもとづく許可申請があれば、墓所はもちろん管理舎についても従前どおり存続し得るよう許可する旨真平に告知しているところである。

第三証拠《省略》

理由

一  本件土地部分を含む一帯の土地がもと幕府の直轄領であったが、その後没収されて国有地となり、明治六年一月太政官布達第一六号をもって上野公園地となり、大正一三年一月、本件土地部分が含まれるか否かの点はさて措き右上野公園地が恩賜公園として皇室から被告に下賜されたことは当事者間に争いがない。

二  原告らは、明治七年一〇月東京府知事の興郷らに対する除地許可処分により興郷らが本件土地部分の所有権を取得した旨主張するが、仮りに原告ら主張のとおりの除地許可処分があり、同処分が申請人である興郷らに土地所有権を取得させるものであったとしても、後記認定のように本件土地部分も恩賜公園の一部として皇室から被告に下賜されたもので、しかも右下賜の私法的性質は贈与と解すべきであり、興郷のその後の包括承継人と主張する原告らが本件土地部分についてその所有権に関する登記を経由していないことは、本訴請求自体から明らかなところであるから、民法一七七条、同施行法三七条により原告らは被告に対し本件土地部分についての所有権を主張することはできないものというべきである。

したがって、原告らの除地処分により本件土地部分の所有権を取得したとの主張は、その余の点を判断するまでもなく理由がないものというべきである。しかしながら本訴においては右除地許可処分により興郷らが所有権を取得したか否かを主要な争点とし、互いに主張立証を尽しており、またその点は後記時効取得の主張に対する判断にも関連を有するので、進んで右の点について判断する。

《証拠省略》によると、確かに原告ら主張のように、明治七年九月、小川興郷、訴外百井求造、同斉藤駿平の三名が当時上野公園地を管理していた東京府知事大久保一翁に対し、戊辰の役の際上野の山で戦死した彰義隊の遺族として戦死者の墓を営むべく相応の地所を「除地」として下されたい旨の願いを提出し、同年一〇月二二日、府知事から「書面の趣、今般寛永寺にも相達したので、諸事同寺と打合せ、不都合のないよう執行するように」との達しのあったことが認められる。

そして《証拠省略》によれば、右願いにいう「除地」なるものは旧幕藩時代における土地制度の一つで、御朱印地等とともに年貢の負担しないいわゆる免租地に属し、常態として私有地であり、同制度は明治時代になってからもなお存続していたことが認められる。しかしながら《証拠省略》によると、その後明治四年一月太政官布告としていわゆる社寺領上知令が発せられて、まず社寺の有していた境内と墓地以外の「除地」が没収され、次いで同年一〇月八日同じく太政官布告によって民間の「除地」も全面的に廃止されて地租が課せられることとなり、翌年からは東京府を初めとして全国的に地租改正処分が行われ地券が発行されるに至ったこと、前記興郷らの除地願いに先立つところの明治六年一月一五日、太政官布告第一六号をもって各府県に対し、古来から名所旧跡といわれるところは公園として申出るようにとの達しが発せられ、同年三月、本件土地部分を含めて一帯の土地が公園地と定められたこと、また前記興郷らの除地願いと時期を同じくして東叡山寛永寺からも東京府知事に対し、石碑を建てて彰義隊戦死者の回向をしたいので同戦死者の遺体を埋葬した土地約五〇坪を任せて貰いたい旨の願いが提出され、右願いに対しては添付絵図面のとおり地所九〇坪を結柵して石碑を建て祭典を執行することは聞き届けおくが地所を任せることは聞き届けることはできず、また右石碑の建立、祭典の執行については他の戦没者の親戚朋友で祭祀を願い出ているものに対し、寺と打合わせて不都合なく行うようにと相達した旨の達しがなされたこと、そこで寛永寺としては、翌八年一月寄附金の募集も含め墳墓の建築を興郷らに委任したことが、それぞれ認められる。

右認定事実によれば、確かに寛永寺からの願いに対し土地を任せることはできないと明確に拒否しているのに対し、興郷らの除地願いに対してはこれを拒否する旨の文言のないことは原告主張のとおりである。しかしながら前記認定事実特に当時既に除地制度の廃止が決定的であり、興郷らの願いが提出された当時既に本件土地部分が公園地の一部に編入されていたこと、興郷らの願いに対する達しが、書面の趣寛永寺にも達したので同寺と打合わせのうえ不都合なく執行するようにとの内容にとどまっていること、そのほかもし除地として所有権を取得させるのであれば、達しの中で土地の位置、範囲について明らかにされているべき筈なのに、寛永寺に対する達しと異なり興郷らに対する達しの中にはそれらの点が全く触れていないこと、また本件土地部分について興郷らにその後地券の交付されたことをうかがわせる証拠が全くないことなどをも併せ考えると、前記興郷らの願いに対する達しは少くとも同人らに本件土地部分の所有権を取得させるものではなかったものと認めざるを得ない。

原告らは、右達しにより興郷らが所有権を取得したことは、明治一五年及び同一六年の東京始審裁判所における寛永寺と興郷ら間の訴訟において興郷ら勝訴の判決があったことからも明らかであると主張するが、《証拠省略》によると、右訴訟は、いずれも寛永寺から興郷らに対し、履行遅滞を理由として墓碑建設の委任契約を解除し土地の明渡を求めたものであるが、右明治一五年の判決は興郷らの履行遅滞は石材運搬の遅延というやむを得ない事由にもとづくもので、寛永寺側においてこれがため損害を受けた等の事由がない限り殆んど竣工に近い工事を無効にさせて土地の明渡を求めるのは不当であり、改めて期限を結約すべきであるとし、また明治一六年の判決は、前訴の判決で改めて期限を結約すべきであるとされたのに結約せずにまた明渡を求めるのは不当であるとしてそれぞれ請求を斥けたものであることが認められ、右各判決が興郷らの本件土地部分についての所有権をなんら確定したものではないことが認められる。

また原告らは、除地願いに対する達しすなわち除地処分が土地所有権の移転であることは、本件土地部分の一帯の土地が東京市に下げ渡しになった際興郷に対しなんらの通知のなかったこと、真平が昭和一二年由来記の碑文建立の際東京市長らに対し本件土地部分が自己の所有である旨明記して提出したが、当時の被告の関係部署は右主張を認めたこと、昭和三八年二月真平が管理舎の改築申請の際、墓所の所有権の帰属に関し説明書を提出して被告の主各機関の了解をとりつけ、改築工事を完了したこと、さらに昭和二四年使用承認地を関係寺社に対し無償譲与した際本件土地部分が対象外とされたこと等から明らかであると主張するが、仮りにそれらの事実が存在したとしても、それによって前記認定が覆えるものではなく、かえって《証拠省略》によると、大正一三年一月皇室から東京市に対し、上野公園が下賜された際、本件彰義隊墓所が使用を承認している土地の一つであるとして東京市に引継がれたことが認められ、他に原告主張事実を認めるべき証拠はない。

三  次に時効取得の点について判断する。

《証拠省略》によると、明治一四年ごろ本件土地部分上に見張所の建築されたことは認められるが、興郷が本件土地部分上に管理舎を建築し、同所に居住するようになった時期については本件全証拠をもってしても必ずしも明らかでない。しかしながら、前記願いに対する達しのあった後まもなくその占有が自主占有か他主占有かの点はともかくとして興郷が本件土地部分の占有を始めたことは前記認定事実から容易に推認できるところであり、そして《証拠省略》によると、興郷は明治二八年九月一九日死亡し、その長女しかが家督相続したが、同女も大正八年八月一八日死亡したため、興郷の妻りてが相続し、同女も昭和九年七月二九日死亡したため、その婿養子である真平が家督相続し、同人も昭和四九年二月一二日死亡し、その妻及び子である原告らが相続したこと、右興郷、しか、りて、そして真平と代々前記墓所の管理を継承し現在に至っているものであることが認められる。

しかしながら、前記認定のように、興郷は当初寛永寺からの委任にもとづいて墓碑の建設に当ったもので、《証拠省略》によると、明治一四年にも寛永寺から府知事に対し、一度建設したが債権者に持去られたため再建することとなった墓碑及び見張所の再建工事につき結柵竹夫矢来設置のための土地使用願いの提出されていることが認められるうえ、《証拠省略》によると、興郷が墓所担当人として帝室博物館に対し、明治二三年八月に、墓所守り人腰掛台上の霧除取設願いを、明治二五年六月には墓所控所寄留願いをそれぞれ提出し、また《証拠省略》によると、しかが墓所管理人として帝室博物館に対し、明治二八年一二月に墓碑担当人交替届、明治三八年四月に石灯ろう建設願い、明治四〇年三月に東京勧業博覧会開期中の墓地見張所存置願い、同年九月に同見張所存続願い、大正三年五月に祭典執行願いとともに幕張願い、大正四年一月に墓地事務所えのガス引用願い、同年五月に祭典執行願いとともに幕張願いをそれぞれ提出し、また《証拠省略》によると、りてが墓地担当人として帝室博物館に対し、大正一一年三月墓地見張所の修理改葺願い、同年五月同見張所えの水道及び電灯の引用願いをそれぞれ提出し、さらに《証拠省略》によると、真平が墓所管理人として都知事に対し、昭和二七年一〇月管理所修理届、同三八年二月管理舎改築許可願いをそれぞれ提出していることが認められ、右各認定事実からするならば、興郷初めしか、りて、真平のいずれもが所有の意思をもって本件土地部分を占有していたとは認めがたい。

もっとも、《証拠省略》によると、前記昭和三八年二月の管理舎改築許可申請の際、墓所及び管理舎の所有権が不明確であることなどを理由として処分が保留されたところから、同年七月真平から被告の北部公園緑地事務所長に対し、「北公収第一二九三号御通知書の御答」と題する書面が提出され、同書面中に当初出願要旨に基き墓所の所有を確信のうえ永年の実績を重ねて来た旨の記載のあることが認められるが、右記載のみをもってしては果して真平が墓所の敷地である本件土地部分までも自己の所有であると信じていたか否かは必ずしも明らかでなく、改築許可申請をしていること自体から否定的に解すべきであり、《証拠省略》によっても真平が自己の所有であると信じていたものとは認めがたい。

なお原告らは、昭和一二年碑文の建立に際し、真平から東京市或いは東京市長に対し、土地所有に関する経緯を明確にして通知し、所有の意思を表示した旨主張し、《証拠省略》によると、右主張の墓碑由来記碑建設願いに際し、前記のように明治七年に除地申請をし、寛永寺及び興郷双方に対し許可があり、その後東京始審裁判所の裁判により寛永寺は無関係になったものである旨を記載した理由書を提出したことが認められるが、右《証拠省略》によると右出願自体が墓所管理人としてなされており、右理由書も本件土地部分が自己の所有であると主張しているものとは認められないから、真平が当時所有の意思を有し、これを表示したものと認めることもできない。

以上の認定に反する《証拠省略》は措信することができず、他に興郷初めその後の承継人が所有の意思をもって本件土地部分を占有していたものと認めるべき証拠はない。

したがって、原告らの時効による所有権取得の主張はその余の点を判断するまでもなく理由がないものといわなければならない。

四  そこで次に予備的請求について判断する。

原告らは、明治四〇年一〇月しかと帝室博物館との間で本件土地部分につき無期限の無償借地とする旨の合意が成立したと主張する。弁論の全趣旨によると原告らの右主張の趣旨は、右使用借権がいわゆる期限の定めのない使用借権ではなく、無期限すなわち永久使用借権であると主張しているものと解される。果して永久使用借権なるものが法律上存在し得るのか、永久使用借権なるものが民法上の使用借権と言い得るのか疑問なしとしないが、その点はさて措き、右合意の存否について判断するに、《証拠省略》によると、明治四〇年三月しかにおいて本件墓地見張所の改造工事に着手したところ完成間近になって帝室博物館から工事中止の命令が出されたため、折柄開催中の東京勧業博覧会の会期中の存置承認方を願い出で、続いて同年九月右見張所を現状のまま保存使用することの承認方を願い出たところ、同年一〇月帝室博物館から、特別に許可する、但し後来建物を改築修理するときは本館の認可を受けなければならず、認可された建物以外は設けてならない、特別に借地料を免除するほか上野公園借地者心得を遵守するようにとの心得を附して許可する旨の処分のあったことが認められる。

しかしながら、右認定のように帝室博物館の右処分は改造建築した見張所の存置承認願いに対してなされたものであるうえ、そもそも本件墓所は興郷らが明治七年に寛永寺と競願ではあったが、府知事から墓碑建設の許可を得て建設し、その後興郷及びしかにおいて、許可を得て霧除、石灯ろうを設置するなどして本件墓所の管理占有を続けてきたことは前記認定のとおりであり、これらの事実を併せ考えるならば、借地料を免除するとの文言は注意的に掲げたもので、右処分は見張所存置についての許可にとどまり、少くとも右許可処分において改めて使用借権の設定につき合意したものとは認められず、他に興郷もしくはその後の承継人であるしか、りて、真平において本件土地部分につき無期限の使用借権の設定を受けたことを認めるべき証拠もない。

そうだとするならば、原告らの予備的請求はその余の点を判断するまでもなく理由がないものといわなければならない。

五  以上の次第で、原告らの本訴請求はいずれも理由がないから失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九三条一項本文、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小川昭二郎 裁判官 魚住庸夫 裁判官 市村陽典)

〈以下省略〉

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